2017年12月16日土曜日

拾い読み日記 6


 12月16日。ときどきカラスの声が聞こえる。アパートの住人たちの声は聞こえない。よく晴れた土曜日、みな何をしているのだろうか。

 このところ何を読んでいたのか、いざ書こうとすると、指が止まってしまう。家で、街で、本屋で、図書館で、カフェで、電車で、時には食べながら、飲みながら、歩くように、話すように、息をするように、本を開いて、パソコンの前で、iPhoneで、たくさんの言葉を、読んでいた。なんだかくたびれて、読みすぎたようにも、ぜんぜん何も読めなかったようにも、感じる。
 読むことは、世界中に散らばっている自分の欠片を見つけにいくことなのだろうか、と思うときがある。それとも、自分を砕いて、あちこちに、くっつけてまわっているのだろうか。
 
「ひょっとしたら、わたしという人間はどこにもいなくて、わたしの無数のかけらたちが、選んだり選ばなかったりしたすべての可能性をそれぞれに生きて、折りにふれてどこかですれ違っているのかもしれない。」(ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』)

 欠片であること、断片であること。ここにこそ、読むことと書くことにおいて、自分が知りたい何か、秘密のような何かがあるような気がしている。

「詩は言葉の一形態であり、それゆえにその本質上対話的なものである以上、いつかはどこかの岸辺に——おそらくは心の岸辺に——流れつくという(かならずしもいつも希望にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投瓶通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途中にあるものです。——何かをめざしています。」(パウル・ツェラン「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」)

 昨日、夫の古本屋で店番をしていたら、いい本がどんどん売れていって、自分ももっと、本を買いたい、読みたい、と思った。