2017年12月6日水曜日

拾い読み日記 4


 126日。快晴。窓が光っている。磨りガラスなので外は見えない。とても静か。
 一時間ほど、文字が刷られた紙を前にして、何ができるかあれこれ考え込んでいるうちに、少し疲れてしまった。まだ製本していない紙や、在庫を仕舞っている押し入れがごちゃごちゃしてきたので、整理したい。こういうとき、あまり落ちついて本は読めない。でも、読みたいとは思う。

 このところ、アントニオ・タブッキ『他人(ひと)まかせの自伝 あとづけの詩学』(和田忠彦・花本知子訳、岩波書店)を読んでいた。声をめぐる記述に惹かれる。「声は、心の状態に合わせて変化する音波を、空間に投げかける。つまり、声というのは身振りなのだ」。
 つい先日、駅前のコーヒーショップに入って、さあ本を読もう、と思いしばらく読んでいたのだが、すこし離れたところでずっと電話で仕事の話をしている女性の声と話し方がどうしても気になって、2階から1階へ移った。自分は神経質なのだろうか。電話だったから、だろうか。その反対に、ずっと聞いていたいような声を、街で耳にすることもある。「人間の声は虹のようだ」。あちらこちらに架かる小さくて綺麗な虹の光彩に見とれながら、街をさまよい歩くのがすきだ。
 
 昨日酒席で、夢中になって一息に読んだ本はわりとすぐに手放したくなる、という話をしていたとき、同意してくれる人がいて、少しだけ安心した。でも、なぜなのだろう。夢中になって我を忘れた、そういう自分に、かすかな気恥ずかしさのようなものを感じているような気もする。同じ夢に二度とは戻れないように、同じ読書体験は決してできないから、それが虚しくて、ふたたび手にとる気がしないのかもしれない。時間をおいて再び開いてみたら、まったく違う、あたらしい、ひょっとしたらもっと豊かな体験が待っているかもしれないのに。
 またどうしても読みたくなれば、ためらわず、ふたたび買って読むことにしたい。

 タブッキの本はなかなか一息には読めない。読み進める、読み続ける気力がなくなったら、どこでもいい、どこかのページに紛れ込むこともできる。そこから別の本のページへも飛んでいける。たとえば、『レクイエム』の創作の秘密にせまる、「自分だけのものでほかの誰のものでもない小さな言葉」(「pa」「」)をめぐる文章から、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』が思い出され、今度あの本をどこかの古本屋で見かけたら、きっと買おう、と心に決めた。