2017年4月7日金曜日

千葉文夫のシネクラブ時代




今年はじめての更新となりました。ほんとうはいろいろと、ここでお知らせしたいことがあったのに、長い文章を書く、気力と体力がありませんでした。

さて、このたび、下記の催しのチラシをデザインしました。


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千葉文夫のシネクラブ時代
1980年前後パリ/東京の映画と仲間たち

出演:千葉文夫
聞き手:郡淳一郎

4月22日(土) 13時より
アテネ・フランセ文化センター
入場料 1000円

詳細はこちらをごらんください

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1990年、早稲田大学に入学してすぐ、新入生のためのガイダンスがあり、フランス語のクラス担当として説明にいらしたのが、千葉文夫先生でした。東京に出てきたばかりで、大学という場所もなにやらおそろしく、すべてが不安なときでした。そのとき、先生がなにを話されたのかはまったく記憶にありませんが、淡々と話される様子に、この人はきっとおもしろい人だ、と思ったことは覚えています。不安や緊張が、すこしゆるんでいくような気がしました。こういう大人がいる、「東京」とか「大学」とかいう場所は、もしかして、いいところかもしれない、という淡い希望を、くださったように思います。大学一年生のときは、自分をとりまくすべてのことになじめない感じがして、積極的に人と関わろうとしなかったのですが、その淡い希望が、今から思えば、当時の自分をささえる、大切なもののひとつだった気がします。とはいえ、先生とはその後とくにお話しする機会もなく、4年間が過ぎていきました。

卒業してから、図書新聞という会社に5年間勤めました。そのころ、幾度か先生に書評をお願いしました。電話をかけるたび、やはり淡々と、こころよく、引きうけてくださいました。そのときも、ただ電話とファクシミリだけのやりとりで、お会いする機会はありませんでした。

それからおよそ10数年がたって、先生の最終講義を聴きにいくことになったのは、オルタナ編集者の郡淳一郎さんが、誘ってくださったからでした。講義のテーマは「アーティストの/としての肖像 デュシャンからレリスへ、遊戯の名において」。はたして自分が理解できるのか、そもそも聴きにいく資格があるのか、不安な心持ちで文学部のキャンパスに向かいました。

 舌はかわいて煉瓦のように
 かたくなつて言葉が出されない
 この恐怖の午後
 でも何ごとか自分のことを
 言わなければならないのだ
 何ごとか感謝すべきだ
 いつしよに酒をのんだ人達の前で
 別れの絃琴をひかねばならない
 (西脇順三郎「最終講義」より)

自分の最終講義でこの詩を朗読する人は、あまりいないのではないでしょうか。千葉先生らしいと思いました。こういうシニカルな、飄々としたところに、かつて惹かれたことを思いだしました。
先生が過ごしたさまざまな時間と、先生が関わったさまざまな人々が交錯し、流れたり光ったり渦を巻いたりしてどこまでも続いてゆく川をみているような、そんな最終講義でした。水面にいくつもの波紋がかさなり、そのかたちに見とれているうちにまたあたらしい波紋がうまれて、中心はどこだろう、と魔法にかかったようになり、夢中になって追いかけていって我に返ると、歌が聞こえてきました。“I'm so lucky to be me”。ともに長い旅をしてきたあとのような、淋しさと清々しさと、それから、なにかに感謝したい気持ちでみたされました。こんな気持ちになるとは、思いもしませんでした。生きていて、出会って、別れて、ふたたび出会うことの不思議。「個人の自由意志による主体的な選択といった言い方を人は好んでするが、われわれは正体不明のものに絡み取られながら、辛うじて何かを掴み取るだけのことではないのか。」(千葉文夫「回帰する時間、あるいは無限のざわめき」)
いつのまにか自分も、18歳から45歳になっていて。不思議、としかいいようがありません。

翌日、郡さんから電話があり、千葉先生の最終講義のすばらしさで盛りあがったあと、この企画の話をうかがい、チラシのデザインを依頼されました。そういう次第で、ヒロイヨミ社はこの企画に関わっています。
千葉先生のことをよく知らない方でも、もちろん知っている方も、4月22日、ぜひ、いらしてください。千葉文夫と郡淳一郎。おもしろくないわけがありません。きっと、誰にとっても、忘れがたい、特別な時間になることと思います。


追伸 お花見はされましたか