2012年12月20日木曜日

本の栖






本の中に潜むもの。本の中から漂いだすもの。ひとのけはい。もののけはい。何かいる、うごいている。呼ぶ声がする。「本を読むならいまだ」。

本との邂逅、その決定的瞬間は、ふいに訪れるものです。
きっと、人が本を読むのは、本が人を呼ぶからでしょう。自らを愛してくれる人を見つけたら取り憑かずにはおかない、おそろしい、うつくしい存在。愛されたらいつもそれ以上の愛でこたえようとする、けなげで、いとおしい生命。捨てられては拾われ、忘れられては思い出される、そのはかなさ、したたかさ。

本のひそやかな横顔がうつしとられた様を、本を愛する、本に愛された人たちに見てもらえたらいいなと思います。まるで人のような詩のような絵のような、本の写真たち。
鍵岡龍門写真展「本の栖」、書肆サイコロにて、24日まで開催中です。

初日の白井明大さんの朗読の会「書物の声を響かせる」、どうもありがとうございました。
自分の声で、あるいは人の声で本を読むことは、新鮮な、心躍る体験でした。これから、この愉しみを、もっと追求してみたいと思っています。黙読だけでは得られない、読書の歓びが、確かにあります。
最近は、気に入った文章は家でもひとり朗読したりしています。声に出して読んでいるときの、言葉に呑みこまれるような、声が反響するような、リズムに翻弄されるような、そういう感覚が不思議で面白くって、これはいったいなんだろう、まだよくわからないのです。

 音読とは、言語に対するこの時代の人々の意識のあり様に深く根ざしたものだった。羊皮紙やパピルスに記された文字は死んだ記号でしかなく、それは声を得てはじめて生きた言葉となる。文字はこの場合、視覚的な記号というよりも、音声を直接喚起するものだった。ことに聖書のような聖なる言葉を読むとき、目にふれた文字は必ず声となって発現し、全身がその気に満たされる思いがしたのだろう。(鶴ヶ谷真一『[増補]書を読んで羊を失う』)
 
言葉が声になって立ちあがる瞬間のこの昂揚は、わたしの身体に刻まれた、懐かしい、遠い記憶によるものなのかもしれません。もしかしたら。

本には思うよりもずっと不思議な力があって、人はたぶんまだまだ、本のことを知らない。本はもっとさまざまなやり方で愛されてよい、愛されるべきなのだという思いが、深まっています。わたしはまだぜんぜん、愛し足りない。これからどう愛していけばよいのか、ついでに、どう生きていけばよいのか、このところずっと、考えています。


追伸 無理に朗読させてしまった方はごめんなさいでした