2024年3月17日日曜日

拾い読み日記 294


 書きたいと思っていたことも、画面に向かうと消えてしまった。
 言葉を奪われ続けている。しかし、物と手の力によって、書くことはできないだろうか。そう考えて、ひとつのやり方を試してみる。続くかどうか、まだわからない。

 風の強い日だった。
 何冊かの本を手にした。
 その中の一冊から。

 「言葉は人間の道具ではない、むしろ人間が言葉の道具なのだ。個人——個体ではない——とは言語が自らを豊かにするために発明したひとつのからくりにすぎない。」(三浦雅士)

 いま、言葉の、よい道具になるためにはどうすればいいか。言葉は何をもとめているのだろうか。「手あたりばったり」、試してみるほかない。
 

2024年3月1日金曜日

拾い読み日記 293

 
 野球場に椋鳥がいた。とっとっとっとっと、歩く姿が愛らしい。近くで鳴かれるとうるさいし、柿の実にくらいついていた記憶もなまなましいので、あまりすきな鳥ではないけれど、こうして、誰もいない野球場で歩きまわっているのを見ると、遊びたいのに取りのこされた子どものようで、愁いがある。
 
 疲れがたまっていたのか、帰ってきてコーヒーを淹れてのんだところで、力尽きた。かすかに、寒気も感じた。天気のせいでもあったかもしれない。小一時間眠って、目が覚めても、起きあがる気力がない。ふとんのなかで、スマホを見たり、音楽を聴いたりして過ごす。疲れているときに聞きたくなるのは、やわらかな声。しずかな声。天上から届いたような声。「クレヨン・エンジェルの歌はすこし調子がくるってる、でもそれは、けしてわたしのせいじゃない」。

 いくつかの歌を耳に流し込み、それでもまだ起き上がれなくて、暗い部屋で途方にくれていたところ、ぽす、というちいさな音がして、何かと思えばふとんにぬいぐるみが落ちてきた音だった。こんなふうな起こされ方は、はじめてだ。ありがとう、といって寝床からようやく脱出できた。

 沼田真佑『幻日/木山の話』を読み終えた。
 回想であったり、妄想であったり、幻想であったり、そのつど、わきあがる想いに身をゆだね、言葉で書かれた、というよりは、言葉と書かれた、といったほうがいいかもしれない文章を辿ることは、つまずき、惑うことだった。まるで書くように読んでいた、と思う。
 本を読むということは、奪われ続ける自分の時間とこころを、取り戻すような営みなのか、と思った。作業と作業のあいまに、本を開いて、読むこと、少しでいい、切れ切れでもいい、それができていれば、こころの底にある見えないうつわに水がそそがれ、満たされていくようなよろこびを、感じることができる。

(まだまだ)
 もっと何か体験が、恥が、と、人生というものの、底知れぬ自由が恐ろしかった。ただ、こうは思うようになっていた。世の中に信用するに足るものが何もない以上、せめては自分が生きて、目の当たりにする現実を現実と信じ、これを書き残すことが、あるいは務めなのかもしれないと考えはじめていた。(「早春」)

 本から顔をあげて、ときどき、木を見た。このところ、木を見て、木のかたちを確かめることで、何かを保っていた。この「木山」という男にも、そういう性質があるらしく、ときどきは、彼の目を借りて、見ているようでもあった。

2024年2月18日日曜日

本のZINE


  BIBLIOPHILICのオンラインストアにて、本にまつわるZINEとして、『ある日』の取り扱いがはじまりました。山本アマネさんの本とならんで、うれしいです。写真もすてきに撮ってくださっていて。ありがとうございます。

 それから先日、曲線(仙台の本屋さん)に『fumbling』と『ある日』を納品しましたので、こちらもよろしくお願いします。

 このところは、仕事のかたわら卓球をしていて、卓球仲間も増えてきました。だんだん足が動くようになってきた、と思ったら、手首をすこし痛めてしまいました。身体をいたわりながら、続けたいです。

 ヒロイヨミ社としても、いくつか進行中のものがありますので、かたちが見えてきたら、またお知らせします。

2024年1月30日火曜日

水草

 『水草 二〇二二年 春号』水中書店+ヒロイヨミ社 2022.3.5



孔版印刷 やわ紙(ひょうたん)に金インク

2024年1月28日日曜日

装幀 

板野みずえ『新古今時代の和歌表現』花鳥社 2024.1.30




帯の刷り色=若草色(日本の伝統色  DIC N-829)

2024年1月27日土曜日

窓の韻

『窓の韻』森雅代+ヒロイヨミ社 2016.2.20



2024年1月24日水曜日

拾い読み日記 292

 
 人見知りというのはいくら年をとってもなおらないもののようで、はじめて会う人だけでなく、ひさしぶりの人と会うときにも、どこか、居心地のわるさを感じることが多い。
 このあいだも、ある催しに行って、知り合いの姿を何人も見かけたのだが、会が終わったあと、誰にも声をかけず帰ってしまった。その日聞いた、ある人の、話と声があんまりすばらしかったので、誰とも話したくなかったのかもしれない。誰かと話したら、すぐに忘れてしまう気がして。

 先日、尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』を読み終えた。今年最初の読書。
 ときどき本の厚みを確かめて、101年という時間の長さに、思いを馳せた。今の自分からすると、だいたい、半分くらいだ。

 評伝を読んでいた20日間ほどのあいだ、くる日もくる日も、石井桃子さんがそばにいてくれるようで、心づよかった。
 年をとることには、なにかしら不安がつきまとうものだが、記憶しておきたいことを、書き留めておく。73歳で自伝的長編小説『幻の朱い実』の執筆を志し、準備をして、79歳で書きはじめ、87歳のときに刊行されたこと。89歳のとき、ミルンの自伝を翻訳するために英語のレッスンを受け始め、91歳で取りかかり、96歳で刊行されたこと。(そのタイトルは、『ミルン自伝 今からでは遅すぎる』。)

 「どうしたら平和のほうへ向かってゆけるだろう、と、人間がしているいのちがけの仕事が、「文化」なのだと思います」。これは、100歳になられた際のインタビューでの言葉。

 おかしな話だが、わたしという未熟な子どもに、これからますます、さまざまな経験をさせたい、よい本を読んでほしいと、大人のわたしが思っている。支配しようとしてくるものにあらがって、自分のあたまと手で、ものごとに向き合える人間になってほしいと。